博多のヘッドスパ

博多は、九州北部筑前国に築かれた博多湾に面する港湾都市。古代からの歴史を持ち、中世には貿易都市として栄える。
江戸時代に黒田氏が入国し那珂川を挟んで城下町福岡を築き、二極都市の性格を持つことになる。
明治時代には博多・福岡をまとめて1つの市、福岡市として市制施行されて現在に至り、博多の地名は博多区として残る。小倉には陸軍の造兵廠が置かれ、1945年にはここが長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾の最初の投下目標となった。
このように、中世の博多津は、概ね、古門戸町付近の海岸線、現在の博多川、房州堀と、当時新造された、現在の石堂川に囲まれた地域であり、水郷都市の様を呈していた。
中世初期までの博多津は入江などによりさらに海岸線が凹んでおり、現在の中洲川端駅付近で東西に括れた地形になっていた。そこから北の部分を息の浜(沖の浜)、南側を博多浜と呼んでいた。
中世の博多津は、平安時代の1161年に平清盛により日本初の人工港「袖の湊」が建設されたことにより始まる。
鎌倉時代の元寇の後、沖の浜(現在の蔵本町付近)から現在の古門戸町付近までの海岸線沿いに防塁が築かれている。
このころ、博多津の海沿いには承天寺、正福寺、櫛田神社、萬行寺が建てられており、中世博多の中心的都市であった。
元寇が襲来した文永の役(1274年)によって博多の町は焼失した。再来を警戒して博多湾沿岸には元寇防塁が築かれる。
防塁が築かれたことから博多の別名として「石城」の名が生まれる。元寇ののち1293年(永仁元年)に鎮西探題が設置され(現在の櫛田神社の近く)、大宰府に代わって九州統治の中心となる。
大宰府の外港であった博多津には鴻臚館が存在し、鴻臚館貿易が行われるとともに、遣唐使が経由地として訪れていた。
757年(天平宝字元年)に櫛田神社が創建。806年(大同元年)に唐より帰朝した空海は博多に東長寺を建立している。
藤原純友の乱に際しては、朝廷追捕使小野好古と藤原純友との争いで博多の町が焼失する。この争いの前、好古は戦勝祈願にと櫛田神社に素盞鳴大神を勧請したとされる。
前述の石堂川の築造により房州堀(旧比恵川)の流量は著しく下がり、旧比恵川河口に中州が形成され、これが現在の中洲地区にあたる。文豪・森鴎外が小倉に住んでいたのも陸軍の軍医としてであった。
第二次世界大戦後はそれらの施設や民間の建物などがアメリカ軍に接収され、今のNHK北九州放送局も米軍向け放送を一時行っていた。
現在でも市内の一部には軍事都市の名残をとどめる史跡が存在する。
この頃の博多商人は日明貿易や日朝貿易のみならず、琉球を経由して東南アジアとの貿易にも関わり、中でも道安という商人は琉球国王の名代として貿易を行った。
明で買い付けた生糸は日本で20倍の価値になり、逆に日本の銅は明で4~5倍の価値になったという。
また銅銭を輸入し、日本刀や硫黄などを輸出し、博多商人は巨万の富を得ていた。
その様子は海東諸国紀にも記載されている。